牛窓オリーブ園ツーリング紀行
牛窓へのツーリングは前から興味があったのだが、なにしろ遠いので敬遠していた。尾三地区在住の私が日帰りで瀬戸内市牛窓までの往復を決行した。
2号線をひたすら岡山まで「ブルーライン」でひたすら瀬戸内市牛窓まで、原付二種の掟で高速道路は使えない。想像以上に過酷なツーリングとなった。
牛窓に到着し、オリーブロードを走ると、過酷なツーリングのことは、すっかり忘れることとなる。
その景色の美しさに感激しスマホで写真を撮りまくっていた。小高い丘のオリーブ園に行ってみると、その広場からの景色は、さらに美しさを増していた。
オリーブ園の展望台からは、向かいの島、その奥には小豆島が眺望でき、フェリーで向かうこともできるようであったが、日帰りツーリングの私には時間が無いのでそこはパスした。
牛窓港の隣に大きなリゾートホテルがあり、とてもオシャレ!お泊りツーリングの方は利用しても良さそうでした。
食事も南欧風のオシャレなイタリアンとか、有りそうでしたが、 日帰りツーリングの私には時間が無いのでそれもパスした。
神功皇后にまつわる牛窓の伝説
神功皇后
神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。 三韓征伐を指揮した逸話で知られる。 系譜 夫:第十四代天皇 仲哀天皇。 皇子:誉田天皇、第十五代天皇 応神天皇。 皇子:誉屋別皇子(日本書紀では弟媛の子)。 事跡 『日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇が香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。 (Wikipedia:神功皇后)
牛窓の伝説
牛窓には、昔から語り継がれてきたある伝説がある。
それは西暦200年頃、仲哀天皇は、妻である神功皇后と共に軍船にて三韓攻め(新羅・百済・高句麗)に出兵しますが途中、吉備の国であるこの浦に立ち寄ったとき船が港に着くや突然空は雲に覆われ、激しい落雷と共に頭が8つの怪物が現われた。怪物は塵輪鬼と言い、黒雲に乗って仲哀天皇の一群に襲いかかった。勇敢な仲哀天皇は恐れることもなく弓を手にとり、塵輪鬼に矢を射ると、真二つになり、海に落ちていった。しかしこの時、仲哀天皇も流れ矢に当たり、それが元で死んでしまいます。海に落ちた鬼の首が鬼島(黄島)、胴が前島、尾が青島である。残った神功皇后は、大変お嘆きになられましたが、夫君のご遺志を継ぐべくこの浦の住吉明神に参拝した後、男装をして出発されます。神功皇后が三韓征伐を終えて再びこの地に立ち寄った時、塵輪鬼の魂が牛鬼に姿を変えて海から現れ皇后の船を転覆させようとした。とその時、住吉の大明神が老翁の姿となって現れて、その牛鬼の角をつかんでなげ倒した。神功皇后は無事に難を逃れた。それからはこの浦を牛転びと呼ぶようになったそうで、その後「うしまろび」がなまって牛窓となりました。